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Interview@philiahall


心の触れあいこそが“芸術”
指揮=茂木大輔(もぎだいすけ)

2012年9月29日(土) 15:00

 

フィリアホールで聴くオーケストラシリーズとして、2010年からスタートした“マエストロ茂木大輔によるオーケストラな世界”。今年のテーマは夭折の天才“シューベルト”。名交響曲「グレート」をメインに、初期の交響曲第1番と時代に埋もれてしまった秘曲オペラ「悪魔の悦楽城」の再現を試みる、画期的なステージとなりそうです。9/29公演に向けて、茂木さんにお話を聞きました。

シリーズ初年のテーマは“モーツァルト”、昨年が“モーツァルトからウェーバーへ”、そして今年は“シューベルト”と、時代を辿ってきています。

フィリアホールの柔らかな気品ある雰囲気でリラックスして聴くイメージを大切に、ベートーヴェンやハイドンなどの重厚なものより、女性的でロマンティックな“軽量級”の作曲家を選んできました。モーツァルトとウェーバーの間には親戚関係があり、ドイツ語のオペラを草創したという偉業があったのですが、“ロマンティック”と“オペラ”はシリーズを通しての重要なキーワードです。モーツァルトからスタートした“ロマンティック”の歴史を丁寧に歩きながら、メンデルスゾーンやシューマン、ショパンなどに発展していく道の開始点にいるのが、シューベルトです。

今回のプログラムは、シューベルトがわずか16才で作曲した歌劇「悪魔の悦楽城」の序曲とアリア、同時期に書いた交響曲第1番、そして第8番「グレート」です。

シューベルトのオペラに注目すべき!とかねてから力説されていたのは音楽監修と貴重なレクチャーをお願いしている西原稔先生でした。「悪魔の悦楽城」はその中でも先生が一押しにお薦めくださったもので、音源を聞いてみて、その奇怪で精密な音響に、本当にこれが高校生の書いた作品なのかと驚愕しました。シューベルトの最初と最後の交響曲を同時に聴くことについては、通常こうした試みは変化を見る意味が大きいのですが、シューベルトの場合にはむしろ「第1番」が、すでに「グレート」をギリギリまで準備できている、驚くべき完成度と味わいをたたえていたことが発見できます。もちろん、「グレート」のもっている天国的な時間と民謡風の主題を気づかれずに巨大な構成へと導く力は、これまた音楽史の奇跡です。時間が許せば、「未完成」も演奏したかった!!(笑)

茂木さんご自身のシューベルト体験を教えてください。

ぼくは24才でバンベルク交響楽団の首席オーボエ奏者としてゲストで演奏していましたが、その中でも大きな体験はオイゲン・ヨッフムの「グレート」を御一緒できたことです。ゆっくりと空中に放物線を描く高齢なヨッフムの指揮棒が、あるときには輝かしく、あるときにはすすり泣くような、自然な言葉そのものとしてシューベルトを音にしていたことが本当に感動的でした。演奏後に楽団員が次々と楽屋に訪れて、その一人一人と抱擁しいていたのは、それがこの楽団との別れになることを巨匠が予感していたのかと思います。その次に予定されていたブルックナーの第7番でのパリ公演の直前に、ヨッフムは帰らぬ人となったのでした。「グレート」がたたえている幸福感の中に垣間見える“死の予感”を、ぼくはこのヨッフムの記憶に重ね合わせていることがあります。鳴り響くコントラバス!

シューベルトの天才性は、他の作曲家と比べてどのようなところとお感じになりますか。

モーツァルト、シューベルト、ウェーバー、メンデルスゾーン、ショパン、ビゼーなど、彼らが早くに亡くなっているのはもちろん偶然の一致かもしれませんが、その創作が若さゆえの純粋な音響をたたえていること、肖像画などが若いものしか残されていないこと、夭折がもたらす悲劇的な(いわゆる“晩年”の曲が“死の予感”などと論評されるような)イメージを聴き手がどうしても重ねてしまうことなどから、特別な一団を形成しているとは感じます。この中で、ぼくにとってのシューベルトの特異性は、次のようなことです。モーツァルト、ウェーバー、ショパン、メンデルスゾーンなどについては、漠然とではありますが、“もし彼らが長生きしたら、こういうジャンルの、このくらいの規模と精神性の作品を残したのではないか”ということを、音楽史の流れ、変化になぞらえて想像することができますね。ベートーヴェンについてもそれは少しあります。例えば、モーツァルトやウェーバーは、社会の変化に伴って、ワーグナーが作り出して行ったようなドイツ語の巨大オペラに接近していったことでしょう。彼らの「ピアノ協奏曲」などは、若年限定のジャンルとして整理されていたのかもしれません。また、何よりもモーツァルトも間違いなくロンドンに行っていたと思います。そうした楽しい想像がほとんど不可能であるのがシューベルトです。一作家一様式といいますか、彼は“あのままの様式ですべてのジャンルで創作を続けた”というようにしか考えようがないのです。「未完成」はきっと完成しなかった、とも思います(笑)。もともとの素質が奇跡的に豊かで、考え直すより新しいものを書くという速筆、すべての音がどこまでも自然でありながらオリジナル、古くさくて新しい、という作曲家シューベルトは、存分に語りつくして世を去ったのかもしれない、と今は思っています。

オーケストラにまだ馴染みがない方にも向けて、その魅力や楽しみ方をお聞かせください。

まず一番にあげたいのは、たくさんの楽器があり、様々な音色があり、それらを、その楽器ひとつに人生をかけたプロが演奏するという贅沢さです。ソロや合奏のもたらす音色のパレットと音量の幅広さは、“音楽の油絵”に例えられると思います。いかなる大作でも受け止められる可能性をオーケストラはたたえているのです。楽しむコツは、一人の奏者にしっかり注目することで、むしろ全体の構造や興味が強調されるということでしょうか。トライアングルの前にずっと座っている奏者がいつ演奏するのかドキドキしながら見ているとか、コントラバスの3人目のイケメンや、クラリネットの2番にいる美女など、誰かに注目してみてください。生演奏の面白さの半分は、“目で見える”ことにあると思っています。ぼくがオーケストラに感じる魅力の最大のものは、そうした要素に加えて、やはり作曲家の最大、最高の作品をもつジャンルだということです。演奏しても、指揮しても、その説得力の大きさと感動は、やはりオーケストラならではのものがあると思います。

音楽の力。単なる音の羅列や融合がなぜ人間にいろいろな感興を呼び起こすのか不思議に思いますが、いまの茂木さんが考える“音楽の力”とは何でしょうか。

音楽は、耳から受け取る自然の法則を人間がだんだんと理論化していった技法による、作り手、演奏者の精神を直接伝達できる方法だと思うようになりました。読むこと、見ることとも違い、理性と感情の両方を一瞬にして響きの中に閉じこめて聴き手に届けることができ、聴き手はそれをまた瞬時に解凍して感覚として理解できるということ。時間の中で、これだけの情報を効率良くやりとりできる芸術は音楽だけです。あとは、送り出すわれわれが、作曲家の込めている膨大にして繊細なメッセージをいかに忠実に、大切に、敬意をもって音に蘇らせて送り出すことができるか。その問いかけはいつも自分の中にあります。

音楽家を志す若い人たちに何かひとつアドバイスをいただけるとしたら、どんなことでしょうか。

物凄く勉強しなくてはならないし、物凄く練習しなくてはなりません。そしてたくさんのことを人生においても芸術上も経験しなくてはなりません。無駄な時間はありません。

並外れた好奇心と行動力で、音楽に仕事に趣味にいつもご多忙の茂木さんですが、近況やお客様へのメッセージをお聞かせください。

広島交響楽団の企画で、ベルリオーズの「幻想交響曲」に、子供たちの見た“夢の絵”とその説明を投影する、という試みをしました。公募して届いた子供たちの夢と説明は、想像していたよりもはるかに深く、芸術的で美しく、可愛らしく、深く心を打つものでした。芸術は技法でも理論でもなく、感覚同士の直接的な触れ合いであること、器楽という、どうしても習得しなくてはならない様々な作業や技術を伴う仕事をしていても、最終地点はこうした心の触れ合いにあることを強く実感しました。東京音大の指揮科の大学院で学び、今年度で修了します。指揮者として、誠実で、作曲家と聴衆の心と感覚の仲介を果たせる音楽家になりたいと思っています。