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Interview@philiahall


ヴァイオリンに生きて。魂の半世紀。
ヴァイオリン:前橋汀子

2013年1月26日(土) 18:00

前橋汀子

 

トップアーティストのみが持てる圧倒的な存在感とオーラ。2012年に演奏活動50周年を迎え、リサイタルやオーケストラとの共演など、各地で輝かしく活動を繰り広げるヴァイオリニスト前橋汀子が、1月フィリアホールの“女神との出逢い”シリーズに登場します。93年当シリーズ第1回のベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会から始まり、バッハ、ブラームス、モーツァルトと、様々なプロジェクトを重ね、シリーズ全体をも力強く牽引してきた、いわば“女神”の顔。今回はヴァイオリニストとしての原点に立ち戻ってバッハの無伴奏プログラムに挑む前橋さんに、自身の50年の歩みと想いを伺いました。

1961年、レニングラード音楽院創立100周年記念の一環として日本人初の入学を許されて、ソ連に留学をされました。

前橋汀子
幼少の頃のヴァイオリン演奏
前橋汀子
ソ連に旅立つ船上(1961)
前橋汀子
ロストロポーヴィチ氏と
前橋汀子
レニングラード音楽院でミハイル・ヴァイマン先生と

巨匠オイストラフの来日公演を聴いて以来ロシアに憧れて、夢がかなうかどうかも分からない時代、子供心にどうしたら行けるのかと考え、ロシア語の勉強をはじめたのです。

高校生のときにいよいよ念願かなって、横浜港から船に乗り、汽車と飛行機を乗り継いで、1週間の長旅の末、帝政ロシアの都・レニングラードに行きました。

当時はオイストラフ、ロストロポーヴィチ、ギレリス、リヒテルなど、綺羅星のごとく巨匠たちが活躍した全盛期で、彼らの演奏をいつでも聴けましたし、バレエ、オペラに、エルミタージュ美術館と、音楽、美術、文学など、芸術すべてが第一級品である環境が当たり前のようにあって、そうした場にいられたことは本当に素晴らしいことでした。

音楽をやる上で、芸術全般に触れることが大切だとわかったのもそのときでしたし。最初のレッスンでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をみていただいたときに、「君はオペラ“エフゲニー・オネーギン”を見たことがあるか?」と聞かれたのです。プーシキンのロシア語の原作にも触れ、チャイコフスキーの作曲背景を知って初めて同じ時期に書かれたヴァイオリン協奏曲も分かると。それまではそんなことは考えもしなかったのです。高いレベルの教育システムがある一方、共産主義下で張りつめた空気の中、配給や日用品も不足がちでしたし、練習部屋を確保するのにも必死で毎朝4時に起きて音楽院に通いました。3人部屋の寮生活だったので、ひとり泣く場所もなく、ひたすら勉強をして悲しい気持ちを紛らわせていたところもありました。夢と希望に満ち、同時に厳しさも全身で体験したロシアでの3年間は言葉にはできないほど濃密で、私の人生観に大きく影響しました。当時を思えば、今は何でも乗り越えられます。

ニューヨークにも留学されました。

ロシアで身体を壊して入院して、一度日本に帰国後、ロシアにまた戻るつもりだったのですが、ジュリアード弦楽四重奏団のロバート・マンさんにレッスンを受けたことがきっかけでジュリアード音楽院へ行くことになったのです。シェーンベルクやベルク、バルトークなど、ロシアにいた頃には情報統制で全く存在さえ知りえなかった新しい時代の音楽をたくさん勉強しました。トイレットペーパーもないようなロシアから、何でも使い捨て、練習室にも困らないアメリカに移り、10代終わり頃に両極端な環境を経験したのは面白かったですね。レッスンの方法も全然違って、ロシアではどのクラスも聴講が自由だったのが、アメリカはあくまで1対1の個人レッスンでした。

その後、ヨーロッパに渡り、ヨゼフ・シゲティ氏に師事されます。

前橋汀子
スイスでシゲティ先生と

プロコフィエフが亡くなった1953年に、実は日比谷公会堂でシゲティの追悼演奏を聴いているのです。そのとき子供だった私は偶然シゲティに頭を撫でられて、ずっとお会いしたいと心に秘めていました。アメリカの生活が性に合わないこともあり、ヨーロッパに行きたい思いが膨らみ、スイスにシゲティを訪ねたのです。シゲティ先生はとても筋の通ったリアリストで、何をやっても大成しただろうと思う方でした。「27才までに自分の立ち位置を確立しなさい」と。コンクールなどで別の国に行ったりすると、指使いのアドバイスを書いた手紙をいただき、僕が死んだら売れるから大事にしろとのユーモアに富んだメッセージがあったり、こちらが出した手紙も添削されたり、返事はすぐ書くように言われたり、ヴァイオリンだけでなく、人としての在り方全般を教えてくれました。

前橋汀子
スイスの自宅にてミルシテイン氏と

また、スイスでは、やはり大ヴァイオリニストだったナタン・ミルシテインにも出会って、レッスンはもちろん、ホテルの部屋で練習するのを聴かせてもらったり、高級レストランでご馳走になったりと、よくしていただきました。彼は飛行機に乗らないので、日本に唯一来なかった巨匠ではないでしょうか。ミルシテイン先生は当時演奏家として現役でしたから、ちょっとした演奏上のアドバイスは今でもとても役に立っています。譲っていただいた皮のミュート(弱音器)も大切に使っています。

シゲティにミルシテインと、まさに往年の名演奏家と接していらっしゃることに、改めて驚きと羨ましさを感じます。

2人とも偉大で、人間的にも素晴らしい方でした。シゲティの演奏は今聴いても本当にすごい。1つ音を聴いただけでシゲティと分かりますし、何より彼の「音楽」が聴こえてきます。単純にきれいとか美しいとかではなく、有無を言わさず惹きつける魅力。ミルシテインにもそれは言えます。今だったら、彼らにあれもこれもとたくさん話を聞きたい気持ちです。音楽には最終的にはその人自身が出てきます。美しいというのは何をもって美しいのかという問題がありますが、シゲティの音楽にも絶対的な美しさが存在しているのです。あの時代は皆がひとつのものに一心に向かう姿勢があって、それは今も失いたくはないですね。

前橋さんが長く第一線で演奏を続けてこられた原動力は何でしょうか。

前橋汀子
レオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団とパガニーニのヴァイオリン協奏曲を演奏(1970年カーネギホール)

自分にあるのは尽きることのない意欲。50年やってきて、昔シゲティやミルシテインが言っていたことの本当の意味がようやく見えてきたかなというところです。今日弾いて気づくことがあり、明日弾いてまた気づくことがあり、その連続です。もっともっとヴァイオリンが上手くなりたいという純粋な気持ちでずっと続けてきました。

今回の演奏プログラムのバッハの無伴奏ソナタ、パルティータについて。

ヴァイオリン独奏の曲は99パーセント、ピアノの助けを借りないと成り立たないのですが、例外のひとつにバッハの無伴奏があります。毎日どれかの楽章を抜粋して欠かさず弾いていますし、常に傍らにあるとても大切な存在です。80年代に全曲録音して、それ以降も何度も演奏会で弾き重ねる中、演奏も自然と変化してきて、現在の“前橋汀子”のバッハをぜひ皆さまに聴いていただきたいと思っています。フィリアホールは数多くのコンサートに出演して、録音もしたりと、想い出の多いホールで、その舞台で再び独りバッハに臨めることを楽しみにしています。

体調管理で気をつけてきたことはありますか?

おかげさまでずっと健康に恵まれてきました。食事はバランスが大切ですね。今はジムに行ってトレーニングをしています。先日、世界的ソプラノ歌手のエディタ・グルベローヴァさんとお話をする機会があって、練習について共通項が多いなと改めて感じました。身体を酷使しないで、イメージで音づくりをすること。身体を保つために、逆説的ですが、いかに練習しないか!です。音を出したとしても、弱音で全ての練習ができますから。

前橋汀子
ロンドンの楽器商リチャード・ベア氏と

今お使いの楽器は1736年製の銘器、グァルネリ・デル・ジェスです。

10年ほど前に、ロンドンの有名な楽器商リチャード・ベア氏に紹介されました。閉店前ぎりぎりに少しだけ見せてもらって、帰りの飛行機の中でもずっと気になってしまい、帰国後すぐにロンドンへ舞い戻ったのです。100年くらい倉庫で静かに眠っていた楽器で、それから10年間弾き込んできて、今とても良い状態です。日本ではストラディヴァリウスが有名で楽器の数も多いですが、数が少ないデル・ジェスもそれに並び立つ存在です。

若い人たちへのメッセージをいただけますか。

いろいろなことに挑戦して、吸収して、教養を身につけて、月並みな言い方ですが、世界に飛び出してグローバルな視野を持つこと。日本人としてのアイデンティティーもとても大事。あとは毎日の努力と積み重ねです。

11月末、都内事務所にて行ったインタビュー。さまざまに興味深いお話を伺う中、音楽界全体の憂いにも触れて、「どうしたらクラシック音楽をもっとたくさんの人に聴いていただけるか。」と熱く語ってくれた前橋さん。脈々と受け継がれる歴史と演奏家の使命を一身に背負いながら力強く未来を見据える姿に、こちらの気持ちもぐっと奮い立たされたインタビューとなりました。