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藤木大地 (カウンターテナー)

出演日:2015年7月23日(木)11:30

Thursday 23 July 2015 , 11:30

年月を経て深まる、「ギターとうた」の魅力。

私が共演させていただいている方々は、ピアニストにしてもギタリストにしても、ソリストの方が多いので、よくいわれがちな「伴奏」ではなく、アンサンブルの共演者として、お互いの音楽をより高めあえる存在として、演奏を一緒に創り上げています。年月を経て深まってきている大萩さんとのデュオの「今」と、「ギターとうた」による新しい魅力を発見してください!

藤木さんが声楽を習い始めたのは、またプロを目指すようになったのは、いつ頃、どのようなきっかけだったのでしょうか?

生まれ育った宮崎市の中学に在学中、音楽の授業で一生懸命歌っていたら、音楽の先生から男子部員の少なかった合唱部に誘われました。メインで入っていた野球部に所属しながら、県内、九州、全国の合唱コンクールなどに仲間と力を合わせて挑戦する中で、歌うことの楽しさや歌を通じた出会いの楽しさを知りました。
実は高校受験のとき、都内の合唱強豪校の受験も考えましたが、悩みに悩んで、地元の進学校に進むことに決めました。将来はテレビのアナウンサーか新聞記者、マスコミで働きたいと思って勉強に励み、大学の志望校を設定していましたが、歌のことが諦められなかった。どうしても一度声楽を習ってみたくて、高1の終わりごろに地元のテノールの先生の門を叩きました。最初のレッスンで、おまえは芸大にいけ、と言われ、その気になってしまい、進路を変更しました。数ヶ月後に県の声楽コンクールで1位をいただき、あぁ、自分は本当にひとりで歌ってもいいんだ!と思いました。声楽ソロで九州大会、全国大会にも参加し、歌を愛する全国の同世代の仲間に出会えたのが刺激的で、とても楽しかった。

 

2011年にテノールからカウンターテナーへ転向されましたが、そのきっかけはどのような事だったのでしょうか?

ウィーンに留学していた2010年の夏に当地でしつこい喉風邪をひきました。歌声が出せない状態が続き、勉強して覚えないといけない曲が多くあったので、仕方なく裏声で軽く歌いながら曲を覚えていました。自分としては自分の裏声は前々から悪くはないと思ってはいたのですが、売り物にはならないだろうと考えていました。

何曲も通して歌う中で、自分の思うように声をコントロールできることが面白くなり、ウィーンのまわりの音楽仲間やレッスンを受けていたコーチに聞いてもらおうと思いました。聴いてくれたみんなが、その声は美しいと思う、というので、イタリア留学中の師匠、日本の師匠、新国立劇場オペラ研修所時代の外国人講師、つまりテノールとしての自分をよく知っている人たちを本格的に訪ねることにしました。合計で30人がよいと言ったら本気で勉強してみよう、と思っていたところ、50人以上がよいと言いました。その年の年末まで第九のテノールソロなどテノールとしての出演が入っていたので、それが全部終わるのを待ち、その先は歌の仕事は全部断りました。

2011年1月から、ウィーンにひとりだけいたカウンターテナーのもとでレッスンを開始しました。そのカイ・ヴェッセル氏とは「半年後ケルンの学校に移籍するので、それまでしか教えられない」という約束だったので、半年でどうにかテクニックのめどを立てたいと思って必死に彼のもとで勉強しました。
その半年後に大きい有名な国際コンクール(第30回国際ハンス・ガボア・ベルヴェデーレ声楽コンクール/2011年)でオーストリア代表となり、世界大会でセミファイナルまでいくというひとつの結果がでました。それで、あぁ、カウンターテナーとして世界で戦えるんだ!と実感しました。そこで、正式にカウンターテナーへの転向を発表というか、広く伝えました。それまではごく近しいひとにしかこの挑戦を言っていなかったので。その1年後の2012年夏には、同じ国際コンクールの世界大会でファイナルまで進み、賞をいただきました。ヨーロッパデビューとなる、ボローニャ歌劇場からのオファーが届いたのも同じころでした。

 

それまでテノールとして歌われてきた中で、前々から(カウンターテナーへの転向を)意識したことはおありだったのでしょうか?

ありません。パヴァロッティになりたくてはじめた声楽だったので。テノール以外はやるつもりはなかった。バリトンやバスも含めて。テノールばっかり聴いていました。

 

ウィーンでの生活、活動はいかがですか? 留学と同時に演奏活動も並行されておられますが、海外での活動・経験を通し、音楽家として得たことや気付いたこと、大きく変化したことなど、差し支えない範囲でお聞かせ頂けますか?また印象深い思い出、エピソードなどあればお聞かせ下さい。

ウィーンにはヨーロッパのベースメントとしてもう7年も住んでいます。ヨーロッパ各地でのオーディションや出演で旅が多いので、ウィーンにいるときはほとんど自分で食事を準備するし、練習が煮詰まったらお気に入りの場所に散歩に出かけます。また、1年に4-5回は日本に出かけます。各地での仕事を終えて、ウィーンに戻って、つぎの公演の音楽的準備をしたり、オペラや演奏会に通ったり、友人とビールやワインで気晴らしをしたり。いまはたまたま、ウィーン国立歌劇場で客演ソリストとして仕事をしています。留学時代からずっと眺めていた舞台に立つことができ、ときどき泣けてきます。

海外での演奏活動、特にオペラ歌手としては、まさに本場で仕事をするわけですから、これはもう長年憧れていたことが実現したということです。オペラ歌手として世界の舞台で活躍する、という目標がずっとあって、その実現をイタリアで歌って実感しました。やっとオペラ歌手になれた!と思った。あとはもう、アジア人としてのコンプレックスも、自分が認めてもらえるか、という不安を持つこともなく、自分はこのオペラの世界で胸を張ってどの人種とも対等以上にやれるんだ!という自信と、幸福感です。

2013年、ボローニャ歌劇場での2演目め(バッティステッリ作曲「イタリア式離婚狂想曲」)の公演時期の話。公演当日の朝には、体調はどうかとか、入り時間や楽屋来訪者の確認などの電話が劇場から入ることになっているのですが、デビュー演目(グルック作曲「クレーリアの勝利」)のときに一緒に仕事をした劇場の演出助手からひさしぶりにその定例電話がかかってきて、「わたし今日休暇から帰ってきたんだけど、今回のプロダクションでダイチが一番すごいってみんな大騒ぎしてるわよ!」って言ってもらえて。同僚として、歌手として、ほんとにイタリアの劇場で仲間として認めてもらえているんだなと、すごくうれしかった。差別とかハンディはあるんじゃないかと、強がっていても心のどこかではやはり気にしていますから。

そのボローニャでの公演のすぐあとにウィーンに戻って、ウィーン国立歌劇場のステージオーディションを受けたのですが、1曲目を歌い終わったあとに、客席でドミニク・メイエ監督や劇場関係者にまじって、テノールのプラシド・ドミンゴが聴いているのに気付いたんですね。うわー、ドミンゴだー!と思ったけれど、2曲目以降も平常心で歌えて、声楽を目指してからずっと手の届かないところにいたドミンゴに、自分のいつもの歌を聴いてもらえたのが本当にうれしかった。その晩に、いまやっているアデス作曲「テンペスト」の客演契約のオファーがメールで届きました。

そのウィーン国立歌劇場でいままさに仕事をしていて、先日オーケストラ合わせで歌うチャンスがありました。ここのオケは、つまりウィーンフィルです。練習だけど、ウィーンフィルと歌えた。たまたま難しいところをやっているときにメイエ監督が入ってきて、じっくり聴いてもらえました。その日から、目が合うたびにウィンクしてくれるようになり、いろいろと話もしました。素晴らしいソリストの同僚たちも、ネトレプコやカウフマンを日常的に近くで聴いているコーラスのみなさんも、「Bravo!」とわざわざ声をかけてくれて、あー、世界一の劇場でも通用したんだな~と思えました。うれしくて毎回泣けてきて心が忙しいです。
こういったいくつもの経験を経て、これからどこに行っても、胸を張って歌うことができます。

 

藤木さんにとって、歌、声楽の魅力、カウンターテナーの魅力とはズバリどのようなものでしょうか? 

歌、声楽の魅力は、自分の楽器で、自分の発語で、自分の感性で、「音楽」を世界に放つことができるところです。その音楽をより自由に表現できるのが、私の場合はカウンターテナーという声でした。いつも音楽が先にあります。カウンターテナーが珍しく、特別な声だとは私は思っていません。声楽演奏の要素には、発声技術、語学能力、発音能力、音楽性など、いろいろとあります。すべて作曲家の生んだ素晴らしい音楽を表現するために、その能力すべてをいつも向上させていく。つまりは自分という人間を磨くことです。自分の体から出た音楽が、客席や世の中に伝わってよい反応があったときには本当に嬉しいです。

 

今回の大萩康司さんとの共演プログラムの聴きどころを教えてください。

同郷(宮崎県)で同世代の大萩さんとは、テノール時代の2009年末に、私の長年の夢(大萩さんは地元出身の大スター音楽家としてすでにご活躍だったので)として、自分のプロデュースしたプロジェクトで初共演をお願いして引き受けていただいて以来、共同作業(焼肉を含む)を定期的に積み重ねてきました。ホールでのコンサートはもちろん、アウトリーチにも一緒に訪れ、多くの方々にギターとうた(今はカウンターテナーですね)のアンサンブルを楽しんでいただいています。歌手とギタリストの組み合わせは、どこにでも出かけられるのが利点です。船に乗って離島にも行きました。私が共演させていただいている方々は、ピアニストにしてもギタリストにしても、ソリストの方が多いので、よくいわれがちな「伴奏」ではなく、アンサンブルの共演者として、お互いの音楽をより高めあえる存在として、演奏を一緒に創り上げています。大萩さんはその中でも最も共演の多い方のひとりで、共演を重ねるごとに少しずつお互いのことがわかってきて、音と声が寄り添えてきたような感覚があります。わたしたちのレパートリーも、公演の機会ごとに少しずつ(3-4曲ずつくらい)は新しい曲に挑戦することにしていて、今回のプログラムでいうと、ダウランド、メンデルスゾーン、シューベルトの計4曲が初披露です。といっても、これらの作曲家にはこれまでにも取り組んできました。曲目を少しずつ増やしていっている、という感じです。ダウランドはリュートと、ドイツ歌曲はピアノとやることももちろんありますが、ギターとの相性もとってもいいと思うんですね。わたしのウィーンの自宅のすぐ近くにシューベルトの生家があるのですが、そこにはシューベルトが生きた時代のギターが展示されていて、つまりシューベルトの曲は当時ギターでも歌われたのではないかと。そういう想像をしていると、時を超えて彼らの生きた時代のように、現代に演奏して聴いてもらいたいな、という目標ができてきます。

で、この質問は聴きどころでしたね。年月を経て深まってきている大萩さんとのデュオの「今」と、「ギターとうた」による新しい魅力を発見してください!

 

今後のご出演予定や内容、演目のレパートリー、録音などなど、どのような方向性、ご活動を目指していらっしゃいますか?

海外でのキャリアに関して、もうちょっとだけ挑戦したい。夢のイタリアでも歌った、ウィーン国立歌劇場での仕事までたどりついた、もう満足して日本に帰ってきてもいいのかな、と思わないでもないですし、年齢も若いわけではないですが、もうちょっとだけ、あと少し先の世界がみたい。この役を探しているからオーディションしよう、何人か聴いた結果ダイチがいいね、ではなくて、この役ならダイチしかいないじゃん!彼じゃなきゃダメだ!探せ!スケジュールをおさえてくれ!と世界中で望まれるところまでいきたい。と、なると、やっぱりまだやりきってはいない。録音は、いいご縁があればそろそろやってみたいと思っています。英国歌曲が好きなので、そういうのもいいし、オーケストラの演奏で日本歌曲集もつくってみたい。どの言語でも、しっかり言葉を伝えたい。それを多くのひとに聴いてほしい。録音は声が若くて健康なうちにぜひやりたいです。カウンターテナーの歌手寿命は、ほかの声種より短いと思っているので。
あとは恩人で友人で世界的伴奏ピアニストのマーティン・カッツ氏を日本に呼んでソロリサイタルがやりたいです。彼は新国立劇場に講師として毎年きていて、テノール時代の私のこともよく知っています。彼が共演する多くの世界的歌手の中にいまウィーンで一緒に仕事をしているスターカウンターテナーのデイヴィッド・ダニエルズ氏もいて、彼らのCDもずっと前に買って聴いていました。そんなマーティン氏との長年の親交があったから、カウンターテナー転向するかしないか、となったときにすぐにアメリカの彼のもとに録音を送って聴いてもらったし、すぐにくれた返事の中で「why not?」と言われたから確信を持って一歩を踏み出せた。ここ1-2年でぜひ実現させたいです。

(インタビュー協力・素材提供:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団)

 

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