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クリスチャン・ツィメルマン (ピアノ)

出演日:2014年1月23日(木)19:00

Thursday 23 January 2014 , 19:00

ベートーヴェン後期三大ソナタへの挑戦 Ⅲ

3つのソナタを通じて、ベートーヴェンが彼の人生の終わりに抱いた葛藤や劇的な感情を、真に体感することになるわけです。これら作品があなたを浸食するように感じることはありませんか?

わかりません。想像してみましょう。彼は非常に深い内面生活をもった人間です。ふつうの人ではなかった。日常生活においては、かなり醜い生活を送っていたはずです。また、そうした特徴が彼を内向させ、その内面を発展させたこともあるでしょう。だからこそ、彼はこの種の天才となって、すべてを叫びとして外に表わすことができた。そして、最後のソナタ連作では、それは超越的な次元にいたっています。当時の音楽が生み出した、間違いなく最高のものになっている。

 

これら3つのソナタを書き進むうち、ベートーヴェンは深い悲しみの感情やあらゆる葛藤を乗り越えて、すべてを超越した境地へ歩んでいった。

そう、そう。最後のソナタはほんとうに最後のソナタなのですよ。第1楽章はまだ人間で、地上的なものです。第2楽章はすでに天国にある。ですから、彼はこのソナタの第1楽章と第2楽章のあいだのどこかで死んだ、最後のソナタを書いた後ではなくてね(笑い)。第2楽章はあたかも彼岸で書かれたかのようです。
もうひとつ、ベートーヴェンの演奏上の難点は、彼のピアノにあります。この楽器とともに旅を続けてきた私からみれば、《ピアノ》などというものは存在しない。あるのは、いつも《ピアノ+響き(音響)》なのです。つまり、そこにはかならず《ピアノ+聴覚(聴取)》が関わってくる。
つまり、そこには2つの問題があるわけです。ひとつは、ピアノという楽器がここ200年間で変化したこと。それと別に、ベートーヴェンがこの楽器の半分、《響き》を聴くことができなかったという問題があります。彼は楽器から直に伝わる響きでしか聴けなかった。つまり、それではまだ半分だけなのです。
第3の問題は、『彼がほんとうに聴いていたのはなにか?』ということです。彼の耳がまったく聞こえなかったというのは真実ではありません。彼は病気で、そのことが聴覚を歪めていたのです。彼は棒を口にくわえて、ピアノの響板に当て、骨伝導で音を聞くことができました。だから、彼は通常とは異なる周波数で音を聞き取っていたはずです……。
つまり、私の疑問はこうです、ほんとうのところ彼はなにを書いていたのか? 自分が書いたものをどう考えていたのか?
聴覚のバランスが異なるのだから、私が演奏したときに、私が同じ作品から聞き取るものとは、おそらく異なる作品に聞こえるはずです。音の周波数が歪んで聞こえるに違いない。ベートーヴェンは通常の人間とは異なる周波数で音を聞いていたのですから。晩年の彼は作曲するとき、音程の高い和音や、高いオクターヴを用いる傾向が強かったでしょう?
私は試してみましたが、ベートーヴェンのソナタを異なるバランスで録音して、それから周波数を完全に変えてみると、それはまったく違う作品になります。
さて、それではどうすべきなのでしょう? ピアノを操作して、聴衆がベートーヴェンのように聞こえるようにしますか? きっとスキャンダルになりますよ(笑い)。ですから、ピアノをどう処置すべきなのか――このこともまた私のディレンマのひとつです。私はおそらくベートーヴェンが聞いたとおりのものを知っていますから、それを実現しようと試みます。しかし、それをコンサートホールで再現することは不可能なのです。

 

非常に衝撃的なものになるでしょうね。

スキャンダルになりますよ。つまり、私がなにをしようとしているか、人々は理解できないでしょうから。
ある作曲家がなにかを作曲します。彼には自分が聴くように自作を演奏される権利がある。だからまず、それを探し出さなくてはいけない――彼はなにを聴いていたのか?
そして、彼が聴いたものをみつけたなら、ベートーヴェンのような聴覚をもつ聴衆から離れて、(作品という)モンスターを創り出すためにピアノを操作することが、私たちにははたして許されるのでしょうか? これが現時点での私にとっては大きな問題なのです。ちょうど私はいま、鍵盤やらなにやらを構築する最終段階に差しかかったところです。しかし、どうするべきなのか、私にはまだわからない。

 

つまり、ベートーヴェンが実際に聴いていたと思われるものと、アイディアやヴィジョンにおいてベートーヴェン的であると考えられてきたものとの間のバランスを探ることが大きな問題になってくるわけですね。

人々が一般的に聴くのは、ノーマルなピアノで演奏されたものです。しかし、それはおそらくベートーヴェンが実際に自分が書いたと考えていたものから遠くかけ離れています。書いたものではなく、自分が書いたと彼が考えていたものからですよ。
私が聴衆に投げかけるメッセージの根本はすべてここにあります。アーティストが自分のしていることを知ってこう言うのは、確実なことではありません――「私はこの作品の最高の演奏をしています。私の演奏を聴きなさい」(笑い)。そういうのは当時のことをまったく知らない輩です。作品から神秘を抽き出すこともしてはいない。
私はみなさんに、自分がほんとうに心配しているのだと切に言いたいのです……。いくつもの疑問が私にはあります。そして、私が願うのは、これらすべての問題を超えて、みなさんが最後には私の意図を聴きとれるようにすること。これは決してかんたんな問題ではありません。
 同時に、私は演奏を聴いてくださる方々にこう言いたいのです――どうか私の疑念を怖れないでください(笑い)。こうした問題はこの仕事に関わる職人の属性だと私は考えています。疑問をもたないアーティストは、おそらくあまり興味深い人間ではないでしょう。私は自分が興味深い人間だと言っているわけではありませんよ!(笑い) 私が言いたいのは、疑念はおそらく構築的なものだということです。その意味において、疑問をもつのは良いことでしょう。

 

ベートーヴェン自身もまた、彼が聴いていると考えたものと、自分が書いているものとの間にこうした矛盾を抱えていたのではないでしょうか。

そうです、そうです。

 

では、あなたはどのアングルからこれらの作品をみつめますか?

彼は自信をもっていなかった。そう、あなたの言うとおりです。一見したところ、彼は私たちに非常に強いインパクトを与えますね――ナポレオン即位を知って『英雄交響曲』のスコアを破り捨てるなどしたように。内面においては、彼は非常にフラジャイルで、不安を抱えた人間でした。
いや、最初にお話ししたように、私はこのプログラムを前にするときほど怖れを抱いたことはかつてないのです。これまで手がけたリサイタル・プログラムのどれと比べても、これほどまでに大きな敬意と責任を感じるものはありません。

 

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